Facebookのフィードにこんな記事が流れてきた。

「容疑者が自閉症・発達障害」と早々に報道してしまう事の弊害

端的にまとめると、先日起きた新幹線での殺傷事件の容疑者が自閉症だという報道について、偏見や差別を助長する報道は控えてほしいという記事だ。

只今時点(2018/6/10 23:30)でググるとニュース記事タイトルに「自閉症」という記述はついていないが、以前の記事でついていたことがわかる。


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タイトルを変えたのは、きっとさまざまな立場の方々大勢が報道機関にご意見して、慌てて直したのだと推察する。ご苦労さま。


あるまとめサイトでは、案の定差別的な意見が散見された。

「自閉症なのね💧それが原因で減刑にならないといいけど………… 」

「減刑されてしまうか? 」

「新幹線犯人は、自閉症なんですね。無罪になる可能性? 」

「自閉症で入院歴あるみたいだけど、精神鑑定とかしないでいいから死刑してくれ。」

「自閉症なら、刑が軽くなってしまうとか、あるの?」

この方たちは、どうも刑が軽くなることは嫌らしい。
もし自分が容疑者になってしまったらおそらく減刑を望むと思うので、そういう視点で物事を捉えることをおすすめする。



反面、このようなタイトルに批判的な意見も多数見受けられた。

「犯人は自閉症って書くのやめてほしいね😥 自閉症だから人殺すわけじゃないからね😒😒 」

「犯人自閉症なの、、、?こういうのあると、ますます世の中の偏見強まるな。。」

「犯人が自閉症だったとか書かないでほしい。
自閉症の子供を持つ親としては周りからそういう目で子供が見られたら辛い。そんな事うちの子はしない。」

「犯人が自閉症だったという情報もあるけど、この件がきっかけで他の自閉症や似たような障害の人に偏見や差別的な行為が増えないといいな」

「「犯人は自閉症だった」これ精神障害者は犯罪者予備軍みたいな?こういう書き方やめろよ 」

こういった意見が多くあるのは、発達障害支援者として非常に嬉しい。
また、発達障害や自閉スペクトラム症について世間の理解が浸透してきたのかな、とも思う。




さて、発達障害のある方が重大な事件を起こしてしまった報道を見るにつけ、僕はいつもこの本を思い出す。




『死刑でいいです』

母親を殺害し、少年院出所後姉妹を殺害した山地悠紀夫。彼は発達障害の可能性が高かったそうである。

「はじめに」にこう書いてある。

 発達障害は脳の機能障害が原因とされ、最近、急に知られるようになった。発達障害を事件と結びつけることに慎重さを求める意見は根強い。診断名が報じられると、同じ障害のある人や家族は不安になり「マスコミは偏見を広げる」と憤る。こうした声に配慮し、精神鑑定の結果を報じる際に「広汎性発達障害が直接、事件につながることはないとされる」と注釈を付ける記事が増えた。

 だが、「事件につながらないなら、なぜ診断名を報じるのか」という疑問は残る。

 はっきり書くと、障害が事件につながる「リスク要因」の一つだと考える専門家は多い。私たちの意見を示すと、障害は孤立につながる要因だと考えている。

 発達障害の人は人間関係が苦手なため、差別や偏見を受け、相談相手もなく孤立することが少なくない。そのために追い込まれて事件を起こしたケースが目立つのではないか。障害名だけでなく、どういう経過を経て、事件につながったかを詳しく伝えるべきだと考えて取材を始めた。

(...) 障害があるとされた男が、どんなふうに追い込まれて事件を起こしたかをお読みいただき、再犯防止へのヒントを一緒に考えていただければと思う。


僕は、この意見に賛成だ。

報道タイトルにセンシティブになってほしい思いももちろんある。
そもそも「○○障害」というネーミングでカテゴライズされている時点で区別されており、多数派から見て少数派が「何らかの基準で劣っている」要素があることで「区別」が「差別」に変わりやすい。
この差別を解消するために日々活動しているが、とてつもないエネルギーが必要だ。
差別を助長しかねない報道は避けていただきたい。

しかし、発達障害の特性を鑑みて、家庭環境や生活環境によっては、このような重大な事件が引き起こされる可能性が高くなってしまう(であろう)ことから目を背けてはならないと思う。

だからこそ、当事者本人が「孤立しないように」「自信や意欲を持てるように」「課題を乗り越えられるように」すること、そして保護者や周りの人が関わって適切に支援することが、とても重要だと思う。



上のまとめサイト引用で、当事者の保護者とみられる方から「そんな事うちの子はしない」との書き込みがあったが、この考え方だって差別的要素をはらんでいる。
「容疑者はそんな事するけど、うちの子はしない」
「障害者は○○するけど、うちの子(健常者)はしない」
この方は、上2つがまったく同じ構図であることに、おそらく気づいていないであろう。
差別なんてしてほしくない当事者家族が、実は差別的な感覚だったという「あるあるネタ」だ。


差別的な区別の障壁を越えるにはどうしたらよいか。

究極的には「他人は自分だ」と思うことだと僕は考えている。